遙かなるマチョジニア

マッチョXエンジニアを目指すブログ

北海道の小学生不明事件をきっかけに感じた、アドラーへの疑問

スポンサードリンク

不明になっていた少年が無事保護されて、ほっとしております。

www3.nhk.or.jp

父親しつけだと言って、山に置き去りにしたのですが、親子の問題であれど一歩間違えれば命を失う行為であり、やはり行き過ぎた教育だったのかなと思います。

なので、この「しつけ」行為を擁護しようとは思いませんが、共感してしまう気持ちも多少あるのが歯がゆいところです。


子育ての参考になる本として、アドラー心理学を扱っているものがあります。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

どちらも、人生に迷える青年と、アドラーの思想を継承する哲人による会話形式となっているのですが、 特に続編である「幸せになる勇気」では、子育てについての話を具体的な事例を出して触れている、とても勇気のある本です。

この本では、子供は尊敬すべき対象であり、対等な関係を築かなければならない、と書いています。 アドラーは、「褒めること」や「叱ること」を否定しており、 叱責については「子どもの為」という見せ掛けの目的の奥深くに、「子どもを自分の支配下に置くために自立を妨げたい」という目的があるとしています。

そのような意識を明確にもっている親はおそらく少ないと思います。 「何が善で何が悪か」を気づかせてあげたくて、そのために叱ったり褒めたりしているのだと思います。

ただ、たしかに叱る行為は、その場だけの効果しかなく、 結局子供は「叱られたくないからしない」という考えに至るものだと納得しました。

尊敬し、対等に接することで、自立する子供も確かにいるとは思います。 ただし、全員がそのようになるのか?というのも疑問です。

今回の事件、子供は公園で人や車に石を投げていたと父親は証言していました。 この際、父親の発言が嘘か本当かは問題ではなくて、仮にでもそのような行為をした場合、 それでもアドラーは叱ることを許さないはずです。

馬に水を飲ませるために、水辺に連れていくことは出来るけれども、馬に無理矢理、強引に水を飲ませることは不可能だ。馬が水を飲むかどうか、それについては、あとは馬自身が決めることだ。

馬(子)が水を飲むかどうかは、馬(子)の課題であると。

もっと大げさな例えとして、我が子が他人に対して一生残る障害を負わせたら、どうでしょうか? お友達に拳ほどの石を全力で投げたら?階段から突き落としたら?それでも子を信じることが正しいのでしょうか。

逆に、お友達に石を投げられたら?突き落とされたら? アドラはーはやはり否定するのでしょうか。

自分は他の親と比べてもあまり叱らない方ですが、それでも取り返しがつかなくなる怪我を負わせかねる行為をした場合は叱ります。 なぜ叱るのか、理由はちゃんと話しますが、起こってからではどんなに謝罪しても、遅いのです。

万が一相手を死なせてしまって、その子の親に

「お悔やみ申し上げます。でもこれは我が子の課題であって、わたしの課題でもあなたの課題でもないです。」

なんて言えるのでしょうか? 殺人者が、刑務所でキリスト教に改宗して「神はわたしを赦された」なんて被害者遺族の気持ちも考えずに自分都合で救われているのと何が違うのでしょうか。

アドラーを全否定するつもりはありません。先ほど挙げた2冊は、人生を前向きに考えることができるようになる素晴らしい本です。 ただ、今回の事件をニュースで見て、子育ての大変さというのを改めて実感した次第です。